言葉の重要性と挨拶
名高い”王 陽明”の手紙の中に「人生万変といえども、我々がこれに応ずる所以は、喜怒哀楽のうちを出ない」と言っております。
つまり、日常我々が喜んだり、怒ったり、悲しんだりする。そう言う言葉の中に人生があるということですね。(これは非常に深い意味のある言葉であり、人生・日常生活においていかに喜怒哀楽あるべきかということです。平たく言うと、むやみやたらに怒ったり、悲しんだりしないということです)
今日は愉快であった、癪にさわったと云う事が、突きつめてみれば日常生活であります。
これを推し進めてみると、あいつがこう言った、どう言った、あの人からこんな話を聞かされたと云うちょっとした挨拶・会話・応対に支配されています。
更に、人間は、その人の性格や感情によって物の言い方が変わってくる。ある人は意地の悪い不愉快な言い方をする。ある人は美しい性情が自然にその言に現れる。その人の言葉は非常に嬉しい。これは日常よくあることですね。
本当に一字一句は大切にしたいものです。
「挨拶」の意味:
「挨」という字も「拶」と言う字も、なかなか難しい文字です。
この挨とか拶とかの意味は、もともと”物がぶつかる、すれあう”という文字で、物事がぴたりと的中するような言葉が出なければならない。
この意味で「ご挨拶痛み入る」というのは面白い事がであります。本人の痛いところをピッシとやられたときに出るものであるから「痛み入る」わけです。
挨拶で思うところをピタリと当てはまる言葉が出せるようでなければなりません。
こういう意味において、文字言語はたいせつな意味のあるものです。
出典:運命を開く・安岡正篤著・プレジデント社
最近の日本人の忘れがちな言葉・心
何処に参る。行って参ります。お寺に参る。この言葉・参る(まいる)は、とても心のこもった、丁寧な日本人らしい言葉ですね。
この言葉は本来、”敬”するものへ近づこうとする心です。”敬”するものがあれば”恥”を知ることが出来ます。人間の本能、徳性です。これは、非常に日本的な、人間的な、人格的な良い言葉です。
西洋には"LOVE"すなわち、愛する、恋すると云う言葉はありますが・・
私は、あなたを愛しますと言うよりも、「俺はあいつに参った」と言う方が日本的で、かつ精神的価値も、意義も高いと思います。「俺はあいつに参った」と言うことは、「あの女性は偉い」と言う事、尊敬する意味です。
参れば、必ず進んで尽くしたくなる。その人のために、自分を犠牲にしていろんな事をしたくなる。とにかく、人間は、我々は親に、妻に、夫に、師に、友に参らなければならないと思います。
更に、”敬う”、”感謝する”,”ありがたい”、”参る”と言う心を持った人間は恥を知る人です。省みて恥づるから戒める、慎む、畏れる、律する等々、こう言ういろいろの心の働きが起こってきます。
最近、このような”心”を忘れている人が、多くなっているように思えるのですが・・・・・・・・・・・・。
安岡正篤師書籍より抜粋
マナーは思いやり
2010.02.04 Thursday
17:22
例えば、公共の場所や乗り物の中で隣にドスンと座られて、アット驚くことがあります。
それとは逆に小さなハッキリした声で失礼しますと、そーっと腰かけてくれると、とても気持ちが良いものですね!!。
ちょっとしたした”思いやり”だと思います。
自分がされて嫌なことは他人へもしない、それが思いやりではないでしょうか!!!。
マナー教室も盛んで、素敵な人が増えるのは嬉しいものです。
相手の誤りを正す為の接し方
相手の誤りを正すためには、どのようにしたらよいのだろうか?
1.相手の意見に真向から反対しない方がよいのでは。
2.自分の意見を断定的に述べない。決定的な意見を意味するような言葉、たとえば ”確かに”とか ”疑いもなく”などと言う言葉は使わないようにしたほうがよいのでは。
3.そう言う考え方、意見もあるでしょうが、”自分としては、こう思うのだが・・・・”とか ”私には ”そう思えるのだが・・・・”とか言うべきだと思いますが。
4.相手が明らかに間違ったことを主張しても、すぐにそれに反対し、相手の誤りを指摘しない方がよいと思います。
(そうしないと、相手から猛反撃を受けて逆効果になるでしょう。)
5.そして、”なるほどそう言う場合もあるだろうが、しかし、この場合は少し事情が違うように思えるのだが・・・・・ときりだした方がよいのでは・・・・・・。
6.自分の意見を控え目に述べると、相手は納得しやすく、その意見に反対することも少なくなると思います。
やはり、人間日ごろが大切ですね・・・・・。
東洋思想的に言うと、相手を ”敬する心”を失わないことですね。相手の立場を思いやる余裕がほしいですね。
押し付けはいけないですね・・・・。
人情味ある言葉が必要ですね・・・・・。(情理を尽くす)
相手が率直になれる雰囲気が大切ですね・・・・・・。
その持って行き方が、先の6項目に当たるのではないでしょうか・・・・。
人間、誰でも完全ではないが、言わなければならない時には、臆せずに言わないといけない場合もあると思います。
しかし「情理を尽くす」と言う事を忘れてはならないと思います。
議論を避ける
2010.01.30 Saturday
18:46
私は若い頃から、議論と言う議論はしなかったので、お前は”ひきょうだ” ”ずるい”と言われたことがありました。しかし私は相手から意見を聞かれた時のみ自分の考える・思う事を言っております。
なぜかと言うと、D・カーネギーの著書(人を動かす/創元社)に私の思うところが分かりやすく記載されていますので、この著書から抜粋してその理由を書いてみます。
第一次大戦直後のこと、オーストラリアの空の勇士で、終戦直後30日間で世界半周飛行の偉業を成し遂げ、世界を驚倒させた人がいた。
ある夜、彼のために催された宴会で、皆がテーブルについた時、私(D・カーネギー)の隣にいた男が ”人間が荒削りをして、神様が仕上げをして下さる”という引用句に関係のある話をした。そしてこれは聖書にある文句だと言った。
しかし、私はその出典をよく知っていたので、それは間違いであることを指摘した。シェークスピアの文句であると言った。そしたら、彼は大変な剣幕で「なに!、シェークスピアの文句?、そんなはずはない!、バカバカしい!、聖書の言葉だよ!」と言った。
その男は、私の右側に座っていたのだが、左側には私の友人が座っていた。その友人はシェークスピアの研究を長年続けてきた人なので、彼の意見を聞くことになった。
その友人は、双方の言い分を聞いていたが、テーブルの下で私の足をそっと蹴って、こう言った。
「君の方が間違っているよ、あちらの方が正しい。確かに聖書からだ」。
その晩宴会の帰り道で、私は友人に向かっていった。
「あれは、シェークスピアからだよ、君はよく知っているはずではないか」
「もちろんそうさ、”ハムレットの第五章第二幕の言葉だよ。だがね、君と僕たちは、めでたい席に招かれた客だよ。なぜ、あの男の間違いを証明しなきゃならんのだ。証明すれば相手に好かれるね?。相手の面子も考えてやるべきだよ。まして相手は君に意見を求めていなかっただろう。君の意見など聞きたくなかったのだ。議論する必要がどこにある?」。
こう言う状況はたまにみかけますね。私もこの考え方に共感するものですから長い文章になりましたが、あえて紹介しました。
では、私は一体何を言いたいのか。
それは、議論は避ける方が賢明であると言うことです。議論は、ほとんど例外なく、双方に自説がますます正しいと確信させて終わるものです。
議論に勝つことは不可能です。もし負ければ負けたのだし、たとえ勝ったにしても、やはり負けているのです。なぜかと言うと、仮に相手を完璧にやっつけたとして、その結果はどうなるのでしょうか?。
やっつけた方は大いに気をよくするだろうが、やってけられた方は劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ憤慨することでしょう。
そもそも、相手の間違いを、なんのため指摘するのでしょうか、相手の同意を得るために?。相手は自分の知能、判断、誇り、自尊心を傷つけられているのだから、考えを変えようなどと思う訳がない。傷つけられたのは論理ではなく、”感情”だからです。
「人間は無理やり説得されても、納得はしない」
長年、説得について私が自問自答しているテーマがあります。
それは、自分の子供でも、友人でも、部下でも「確かにあなたの言われることは理解できます。しかし、あなたを尊敬できないから、あなたが嫌いだから、あなたの言われたことは受け入れたくない」と言う返事が返ってきたらどうするか?。